箱根駅伝考、改め今年の抱負

およそ1週間前に「ランナーと感動はどちらが速いか?−箱根駅伝考(1)−」というタイトルで投稿。だが書き進めるうちに想定と全くちがうものに。題を改め書き直す。重複している箇所もあり。1週間前の文章はあえてそのままにします。以下、本文。

例えば、ある映画のワンシーン。AとBが向かい合っている。AがBに何かを話す時、BがAの話しをどんな様子で聞いているか。聞き入っている表情。目をそむけ、取り合わない姿勢等々。AとBそれぞれの「話す」、「聞く」という双方の(リ)アクションによって観客がそのシーンに受ける印象や意味合いが変わる。逆に言えば、大半の映画はその連なりを文法的に組み立て、観客の感情を誘導することを目的にしている。

正月、箱根駅伝を沿道で観戦した。元々テレビでも見ることが少なかったが、コース近くに越してから足を運ぶようになった、と言っても今年で2度目である。去年も今年も沿道に立つと特異な高揚感と感動が押し寄せ、それと同時に小さな不安が芽吹く。なぜ「特異」なのか。それは選手が私の目の前を走り抜ける前から沸き起こる感情だからだ。この感情の正体は何だろうか、と考えた時、先に述べた映画の「文法」を思い出した。

東京-箱根間往復という距離とそれに伴う2日間という時間がこの競技の特徴であることは間違いないが、私は付け加えて観客の位置に着目したい。道路条件にもよるが、観戦時にはコースの両側にある歩道を多くの人が埋める。先の映画の例を援用すれば、選手(A)が「走り」、観客=私(B)が「見る」の関係が箱根駅伝の観戦構図だが、実際のところ沿道に立つなり、選手を待つ観客(B’)たちがまず目に入り、選手が走り去る際も、その背景にいる人々を視界に収め続けている。しかも、道路幅という短い距離が向かいにいる人たちの表情を克明に認識することを助けている。

そのまま映画の例に従えば、私が沿道で感じた高揚感と感動は、コースを挟んで向かい合う観戦者たちの気分がのり移ったものなのか。しかも、その理屈で言えばそれを引き起こしたのは彼らに向かい合う自分である。小さな不安の正体はこれか。無自覚に自分自身で引き金を引いていたのだ。箱根駅伝は走る選手(A)を磁力に人々が集まり、道路を挟んで、観客間(B-B’)で感情が鏡を向かい合わせたかのように無限反射され、その大きさは雪だるま式に肥大していく。両側の歩道が高揚感一色になる。

そこでは簡単に自分の気分が作られるし、自分も他者に作用している。「感動させられる観客」と「感動させる観客」を行き来する自分。そこにいる以上、どちらか片方だけ、ということはあり得ない。

選手たちが走り去るやすぐに人がはけ、嘘のように日常を取り戻す道。その道を歩くと、その度ごとについついこうしたことを考えてしまう。この内省する自分、その内容を書き留める自分をCとしよう。今年はこのCなる自分を鍛えていきたい。

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